ごめんなさいがいえない人達

2月10日(木)
『敬虔は、日常の素直な心から始まる。』実祝プランニング語録
ごめんなさいがいえない人が増えている。
さて、聖書では、良くないことをしたら、「神に悔い改める」そして人とも和解することが、書かれている。
ところが、キリスト者といわれる人達が、「ごめんなさい」が中々出来なくなっていると聞いた。
先日も、知人達のある勉強の場で、申し込みも無い男性が来て困惑したという。
そして、終わってから、なんと教会のPRをしだしたという。
主催者は困ったらしい。主催者側の人達の中にはその人と面識のある人はひとりもいなかった。その教会と関係がある人もいないという。
後で、その責任者が、「この場は宗教の場ではないので、今後はお断りしたい。」旨を伝えた。教会のPRをした人に、その勉強の場を案内したであろうと思われる外部の人達には「ちょっと困ります。」と伝えたという。
教会のPRをしだした人を主催側に送った人がいたようだが、その人達からも、ごめんなさいは聞けなかったと。
PRをした人は、これが1番いい!!!と、良かれと思いやっているのだろうが、してはいけない場でPRをしだすと、逆で宗教の押し付けになってしまう。
もし、良かれと思い行ったことが相手を困らせたことを知ったなら、素直に「ごめんなさい」を直ぐに言うことのほうが素晴らしい。
その「ごめんなさい」を言える心と勇気の指導が、聖書や神の敬虔さ素晴らしさを見せていくことではないのか?宗教云々よりも人として大事なことではないのか?例え正しくても「ごめんなさい」が必要な場面は社会ではいくらでもある。
それは、言葉や服装、生活、全てに表れてくる。

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