希望を探す、クリスマスの12日の1日目その2

2010年1月9日土)晴れ
 『クリスマスの12日は希望を投げてくれる。』 実祝プランニング語録
この歌は、苦しみの中から希望を失わないよう生まれた歌だ。12日が終わったのだが、ここ近日若い人達の悲しいことが多すぎる。希望を共に考え希望を失わないように、お互いが励ましあうことを12日から再度HAPPYを探したい。
「クリスマスの1日目、愛するあの人がくれたのは、梨の木の中のヤマウズラ。」
木の中というのは=十字架を象徴し、降誕されたイエス・キリストを示しているという。
ヨーロッパ・ヤマウズラは大きくても30センチまでの大きさだ。降誕は、罪の解決を、武器ではなく十字架によってもたらすという、約束の実現だった。イエスと言う名は「主は救い」という意味。キリストは「神に油注がれた者(ギリシャ語)ヘブル語ではメシヤ」という意味。神に油を注がれた王であり、救いを与えるキリストが降誕された。それがクリスマス。キリストは十字架にかかられ、その流された血によって、人の罪の罰を神の前に受けてくださった。
十字架は、恥であり極刑であった。
イエス・キリストが十字架にかかられた時、右と左にも、十字架があった。その十字架にかかっている者たちは
強盗。この時代の強盗は冷酷で残忍だった。
しかし、そのうちの1人は、自分が十字架にかかっている最中に、自分の罪が見えた。自分の罪が見えたとき、キリストに出会えた。自分は、とても神の前、人の前にも悪いことをしてきたのだから、罰を受けて当然だ。多くの罪を犯してきた強盗は、そのとき、自分の罪を自覚し認め、へりくだり信じた。「イエス様。あなたの御位のお着きになる時にはわたしを思い出してください。」と。その応答は「あなたはきょう、わたしとともにパラダイスにいます。」と。
では、死ぬ前に信じたらいい、それまでは好き勝手にしたい、という人もいる。死ぬ直前にそういう機会があるとは限らない。そしてその時までの時間、神と人に対し悲しませる時間を送ってしまう。教会に通っていても、ミッションスクールで聖書の知識はもっていても、キリストを知ってはいても、キリストに出会ってない人達がいるかもしれない。本当の希望を東方の博士たちが公現日に見つけへりくだったように、私たちも希望に出会う旅が必要かもしれない。 『どのようにして若い人は自分の道をきよく保てるでしょうか。あなたの言葉に従ってそれを守ることです。詩篇119:9』続きは明日のお楽しみ★★★Copyright2009 実祝プランニング

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