もっと、もっとの気持ち ヴィンセンシオ神父
1月23日(月)
『ささげる喜びを持てる者は幸い。』実祝プランニング語録
ヴィンセンシオの言葉に周囲は驚いた。
「ヴィンセンシオ神父様、あなたは誰よりも多くの貧しい人達を助けるために奔走してきたではありませんか?
天国では素敵なお席が用意されていますよ。」
皆、そのように言った。
しかし、ヴィンセンシオは答えた。
「いいや、もっと・・・もっと・・・神と人の為に仕えることができた・・・もっと・・・もっと・・・。」
本物の聖職者である。
多分、死ぬまで古びた服と、古びた靴で奔走していたのであろう。
他にも素晴らしい聖職者は沢山おられる。
共通する事は、家庭を持たないという事と、いくら立派な病院や学校を建てても、自分の物は僅かしか持っていないという事だ。
マザーテレサにしても、必要最低限の着物しか持っていなかった。
家庭を持つことが悪いのではない。しかし、どうしても身内贔屓が起こりうる。
そして、どうしても、欲をもつ要因が増えてくる。
その後そういう良くない事を聖職という肩書きや権力で押さえ込んでしまうきらいが出てくる場合がある。
そこから、揉め事や躓く人が出てくる。
これは、今に限ったことではない。
家庭を持つなら、独り身の聖職者よりも更に律した心と生活が求められる。
なぜなら、家庭は大きな財産だからだ。
聖職者の公平・公正というのは、1番の貧乏くじ?というのかを喜んで引くこと。
しかし、神の栄光というのは、そこに神が喜ぶ聖なるものが満ちていれば、人の目には貧乏くじと思えることから
奇跡が起こるのだ。
これらは聖職者と呼ばれる人達だけではなく、神という大きな存在は全ての人を、「神の目」で見ておられる。
神と人に役立つ凄いものに、神の力で姿変わりさせられていくことが奇跡の現れなのだろう。
Copyright2012 実祝プランニング
尼崎ベンチャービジネス研究会ホームページhttp://ama1975vb.com/
ホームページのトップページに、メンバーによる、励ましの小さなポスターをPDFで掲載。
1月にNO.15「初春」を掲載。
同じく16年前被災した立場から、想いをこめて創られたようです。
また1月に「しっかりと美しく辰」をも掲載どうか、用いて頂ければ、幸いです。