聖・アントニウスに倣う その1
7月13日(火)
3年前に、日本キリスト教団、日本橋教会の牧師先生が書かれた興味深い、厳しい記事を見つけた。
「肝心の牧師の場合はどうなのか?現在神学校入学志願者数は極端に少なくなっている。
牧師志願者は欲しいが、神からの召命を曖昧にすることは絶対にできない。
どんな職業であろうと神からの召命を厳しく問うことがなければ、良い働きはできない。」と。
今は多くの神学生の中で、会社で通用しないから「現実逃避」「生活のため」に、神学校に上手く自分を誤魔化し、人を誤魔化して入る人もいるという。
自分を誤魔化している以上、自分の姿が見えない。だから、「現実逃避」であっても、それを覆い隠す事が自然に出来る。
なんと38年も前、1973年に出版された本から、「牧師であることが安易な道に成り下がっている」と指摘されていたらしい。
という事は四十年ほどは、それで来ているということなのか?
「緊張を失い、低下の一途、馴れ合い。だから牧師の姿勢を矯正することからはじめなければいけない。」と。
http://zenrencho.jp/article0811.html
※機関誌「宣教」(2008年11月号)「主張」欄より
厳しいことであるが、必要な事を書かれていると思った。
これは、ベテランの真摯に神に仕えている牧師先生牧師が書かれているからまだいいのだが、
自分の後輩牧師や信徒や誰かが指摘すると、その人に濡れ衣を着せて、悪くいい、追放してしまうこともあるかもしれない。
又は、憎しみを持ち続けることも起きてくる。
聖なることとは何なのか?聖なることを畏れるとは?
また、仕えられるためでなく、仕える者の姿勢を持たなければいけない。
難しいことを言わなくても、神の素晴らしさは、謙遜の中にこそ、浮き出てくるものではないのか?
それすら、頭の知識では理解していても、できなくなっている人が、残念だが増えつつあると聞く。
だから、楽なほうに倣ってしまう。
アントニウスのような修行をした聖人に倣う姿勢が大事かも知れない。
すべてを捨てての修行になっているかが問われる。
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