お手本になったフラナガン神父のHAPPY その5
6月30日(火)雨
『言葉と行いが一致する生活を喜びと出来る人は本物のHAPPYなお手本である。』
実祝プランニング語録
エディにこびりついていた心の焦げが一瞬にして、消し去られてしまった。
フラナガン神父が何かをしたというより、フラナガン神父を媒体として、神が働かれたのだ。
エディが良い子になったからといって、神父はそれを威張ったり、自分の功績や自己自讃はしなかった。
それを通して自分の名を広めるでなく、お金を要求する事もない。
与えられたお金は神が愛する子供達を助ける事に使った。
だから、本物の聖職者といわれるのだ。
少年の家は正式には「Boys Town」と呼ばれ、非行や問題のある子供達の寄宿と教育の為に設立された。
今は「少女と少年の町」になった。
カトリック教会のNPO団体でもある。現在はネブラスカ州の{少年の町村}にあり、オハマ市の歴史的な建造物になっている。
そしてここで生活している少年達が、自分がここで生き返った喜びを明確にHAPPYに伝えるために彼らの投票によって
「少女と少年の町全国本部」という名称になった。
これは、魂や心、身体の助けを叫び求めている子供達にも、
「こんな『門』があるんだよ!」そのメッセージを少年達自身が伝えている。
この施設にはフラナガン神父の命の息吹があるからだろう。
『あなたの門はいつも開かれ、昼も夜も閉じられない。聖書イザヤ書60:11』
そして1938年には、フラナガン神父の著作に基づき、少年の町が映画化された。
随分と内容は脚色されたらしいが多くの感動を人人に与えた作品になった。
日本でも第二次世界大戦後、日本の戦災孤児や、中国大陸、満州からの引き上げ孤児が多く悲しい現実があった。
その解決に、フラナガン神父の助言が切望され、1947年には日本に招かれている。
そして長崎、佐賀、福岡で始められたのが「赤い羽根助け合い共同募金」。
その後、韓国、オーストラリア、ドイツなどを回り社会事業の推進の為に祈りと力を注いだ。
1948年68歳で召されたが、「少年の町の中の礼拝堂」に埋葬された。そして、
これらの社会事業が神父の志を正確に受け継いで隠れた部分の柱が大事にされているかを、フラナガン神父は今でも天から見ているはずだ。
多分自分の{物}は殆ど持っていなかっただろう。
しかし、少年たちの魂に多くの財産を残した事実がある。
後まで自分を神と人にささげた本物の聖職者だ。
言葉と行いが一致する生活を喜びとしたフラナガン神父は多くの聖職者達のお手本でもある。
続きはまた、明日・・・。
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