祈ることの本質
2月11日(土)
『祈りはお題目ではない』実祝プランニング語録
祈る事は、愛して許していけることだと、今日私は、深い部分を大きな存在から教えられた。
言葉では、それを説く人は多い。しかし、実行しているかといえば、疑問。
1級身障者を傷つけたり、若い夫婦の子どもを堕胎させたりした牧師。
還暦を過ぎても何十年も前に振られた女性を憎んで、ご自分に都合の悪いことがある人達を権力で潰し、
極悪人のように周囲に吹聴し、祈るな!と言い、憎しみを持ったままの牧師。
では、自分はそういう人を憎んで良いのか?
そこに、愛をはさんだ祈りを持たないといけないのではないか?と。
故人だが、ジェームズ・アレンという人がベストセラーになった本の中でこんなことを書いていた。
『とても多くの人が、平和、恵み、許しなどを求めて神に祈り続けています。
しかし、彼らの祈りは、殆ど叶うことはありません。
(中略)
それは彼らがそのことを自分で実践していないから。
(中略)
かつて私は、ある牧師が、神の許しを求めて熱心に祈る姿を見たことがあります。
(中略)
問題はその少し後に発生しました。
同じ説教の最後の頃に、なんとその牧師は人々に向って、
教会に敵対する人達には、どんな哀れみも示さないよう説いたのです。
許しを手にするための方法は、自分から思いやりの種をまくこと以外に
何1つありません。
これを学んでいない人が、牧師の中にさえいるのです。
ジェームズ・アレンは1864年生まれなので、この牧師を彼が目にしたのは、1800年の終わり頃だろうと想像できる。
100年以上前から、神にとっては神の名を使われた、悲しい事が繰り返されてきたのだ。
私は明日、1級身障者の方と一緒に、祈る時間を持とうと思った。
された良くない事は事実として認めても、愛と許しという花束をまず神という存在の前に置かないといけないからだ。
怒りや憎しみのような想いは、棄て去る。
祈るという事は、お題目を唱えるのではない。
大きな存在の愛と力の奇跡を、現実に見せてもらい、まず自分の心に大きな存在を受け入れていくことではないのかなあ?
その時、愛と許しが形になって実行されていくのでは?
Copyright2012 実祝プランニング
尼崎ベンチャービジネス研究会ホームページhttp://ama1975vb.com/
ホームページのトップページに、メンバーによる、励ましの小さなポスターをPDFで掲載。
1月にNO.15「初春」を掲載。
17年前被災した立場から、想いをこめて創られたようです。
また2月に「希望を重ねる如月」「St.Valentine’sDay」をも掲載どうか、用いて頂ければ、幸いです。