クリスマスを祝う人たち その2
12月24日(土)
『光と闇が交差したクリスマス。』実祝プランニング語録
今日はクリスマスイブ。
昨日記した、身障者の方からの献金を拒否したのは、四捨五入すると70歳の牧師だと聞いた。
それで、クリスマスおめでとうはないと思う。
新約聖書には、2000年以上前に、東方の博士たちが救い主の降誕の預言を信じエルサレムにやって来た。
ヘロデという王が統治していた時代だが、ヘロデ王は博士たちに言った。
「・・・自分もそこに行って拝み礼拝するから、後で場所がわかれば、教えて欲しい。」
しかし、心の中は全くの逆。
「居場所を突き止めたら、自分の権力によって殺して無き者にしてやろう。」
それが本音であった。
このような人達が悲しいかな増えている。
実際に刃物や銃でというわけではないのだろうが、牧師やクリスチャンでありつつ、立場を利用し、気に要らぬ人達を無き者にしたり、追い出したり、色々あると聞く。
そんな心で、本物の聖なる祝い方が出来るのだろうか?
勿論そんな方ばかりではない。真摯に神と歩こうと祈っておられる牧師もおられる。
ある地方に通常の礼拝が15人くらいの小さな教会がある。
そこには、子供のクリスマスには親も含め、50人もの人達がきて、良い興奮に包まれ喜んでいたと。
入りきれないほどだったと。
大きな存在は権力や場所や規模や人数の多さをはかり、好まれはしない。
純真に、自分が大きな存在の前に贈り物を携え、心のきよい人を好まれる。
聖書に書いてあるのに。
また、教会という場でしか、クリスマスを祝えないのではない。
その70歳に手が届こうとする牧師が言われたという。
「教会に来ない人は、教会の法律によって、いずれ教会におれないようにされるんだ。」と。
それを聞いた別の牧師が呆れていたとか。
「うちの教会は何十年も事情があってきてない人でも受け入れるんだ。
自分が神になってはいけない。」と。
さて、その後ヘロデ王は、博士たちが帰ってこないので、怒り2歳以下の男子の乳児を皆殺したという。
自分の権力や地位、自分を中心においている人達は、「救い主を拝む」と言いつつ、気に要らぬ人を抹消してしまうのだ。
クリスマスには見事に「光と闇」が、人間という者を通し、2000年前から浮き彫りにされている。
光を歩くか、口で拝みつつ闇を歩くか、本人の選択に任されている。
そしてそれらは、聖書に書かれてあり、その深い意味は、神学によって理解できるものではなく、聖なる霊によって、闘いつつも神を愛すると願う人に啓示されていく。
Copyright2011 実祝プランニング
尼崎ベンチャービジネス研究会ホームページhttp://ama1975vb.com/
ホームページのトップページに、メンバーによる、励ましの小さなポスターをPDFで掲載。
12月にNO.14「クリスマスは慰めの到来」を掲載。
同じく16年前被災した立場から、想いをこめて創られたようです。
また12月に「メりークリスマス」をも掲載どうか、用いて頂ければ、幸いです。