有難うがなくても有難う

12月20日(火)
『贈ったことにも感謝と有難うを持つ。』実祝プランニング語録

有難うができる人は幸いだが、「してやった!」「してやったのに、良いことを返さないから、憎らしい!腹が立つ!」

まあ10人いたら、5人くらいはそんな事を言う人がいるかも知れない。

であるなら、何か見返りを求めてしたことと同じである。

贈り物とは、「物」だけではない。
ボランティアや小さな親切も贈り物のうち。

ある、キリスト教の伝道者という人が(もう還暦は過ぎている)、ある社会経験豊かなおじいさんからあることで指摘を受けたらしい。

その人は、おじいさんを訪ねたのに、きてやったのに・・・言われた事は図星なので気に要らなかったようだ。

そしておじいさんを知らない人におじいさんの悪口や、個人情報を吹聴した。

聞かされた人は、後で「おじいさんが信頼して個人的なことを君に話していたのに、何かが気に要らないからと、そういうことを言うのはやめたほうがいいよ。

まして、私は遠くにいて、そのおじいさんを知らないから、もし、君の言葉を鵜呑みにする人がいたら、大変なことで、捏造された何かの記事のようになる。」

それを伝えたという。すると、その人は、拗ねてしまい、周囲に今度は聞いてもらった人への憎しみ、悪口、情報を流される。

これは、神という大きな存在の心に近づくことだろうか?

してやるという気持ちで何かをするのなら、その返答や態度が自分の思うようにならないと、怒りが出てくる。

それは、本当に自己中心。

私はその話を聞きながら、「有難う」が返らなくとも、させていただいたことに「有難う」と感謝しようと思った。
凄い反面教師になった。「有難う」

では、伝道者、牧師、その他聖職者はこういう人が多いのか?と言うと、「その人自身」による。年令や肩書き、知識は関係ない。

立派な人もいるし、やはり昔の聖人と呼ばれた人達は、仏教でも、キリスト教でも、天理教でも、神道でも、「自分を無に出来ていた」

口でいくらそれを語っても、その人自身はいずれ出てくるからね。
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尼崎ベンチャービジネス研究会ホームページhttp://ama1975vb.com/

ホームページのトップページに、メンバーによる、励ましの小さなポスターをPDFで掲載。
12月にNO.14「クリスマスは慰めの到来」を掲載。
同じく16年前被災した立場から、想いをこめて創られたようです。
また12月に「メりークリスマス」をも掲載どうか、用いて頂ければ、幸いです。

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