ジョン・ブリッジの謙遜と信仰
10月13日(水)
『欲を全て捧げたジョン・ブリッジの謙遜と信仰。』実祝プランニング語録
洗礼を受けていない人達と同じ場所に、司祭のジョン・ブリッジが墓を希望するとは、一般の人達から見れば「不名誉」なことである。
それどころか、本気で自分の生涯を捧げてきた人なら、立派な墓・目立つ墓・賞賛される墓を希望しても、誰も文句は言わないはずだ。
これこそが、ジョン・ブリッジ、その人の信仰であり、献身である。
ジョン・ブリッジは退職金を求めただろうか?死ぬまで引退はしなかったが、引退制度がもしあるなら、引退後は名誉をひっさげて、ちやほやされる、悠々自適の生活設計をしただろうか?
そのようなことを考えているなら、献身ではないと思う。
その上、マザー・テレサや或いはジョン・ウエスレー等のように、名が有名でもない。
ジョン・ウエスレーとは、一緒に神学を学んだらしい。
有名であることが悪いのではない。しかし、ジョン・ブリッジは、例えば仏教で言うなら煩悩を全て捧げていたのだ。
彼が魅力を感じるのは、罪に悩む人達を罪の世界でなく、新しい希望の世界に導くことだけだった。死後もそれを貫いた。このような献身を、手本にしていくことが、今は求められるのではないだろうか?