光の天使のHAPPY モンテンルパの歌
9月16日(水)晴れ
『不思議なHAPPYは重なるほど、大きな幸いの波を起こす。』実祝プランニング語録
モンテンルパの聖者としての役目を担ったのは、他にも居られる。
当時フィリピンとの交渉に当たれる位置にいた、お役人。この方は栄転を蹴って、この仕事を貫いた。テレビで紹介されていたが、高齢ではあるが健在だ。
昭和27年、渡辺はま子は、「モンテンルパの夜は更けて」の曲を周囲の反対を押し切ってレコード化し、歌った。
これが、空前の大ヒットになった。渡辺はま子はこの歌を通し、まだフィリピンに捕われている日本兵達の存在を知らせたかったのだ。自分が歌手として出来うる最大限の事をされた。曲はヒットし、この酷い現状は知ってもらえたが、今度は「渡辺はま子は売名行為のために、歌っている。」そんな中傷を新聞やメディアで流された。
しかし、彼女はめげなかった。昭和27年のクリスマスにはフィリピンに行く予定を立てた。昭和27年12月23日、彼女は危険を覚悟で、ニュー・ビリビッド刑務所まで慰問に行った。無理だと言われていたビザは奇跡的におりた。このとき刑務所の看守達でさえ、言葉が理解できない敵国の歌手、渡辺はま子の歌声に聞き入っていたと言う。
この慰問は処刑を目前にした兵士達の心を強くした。これもHAPPYな奇蹟である。その後加賀尾師はフィリピン大統領、キリノ氏に接見を頼んだ。キリノ大統領は、妻と3人の子供を日本兵に殺された恨みを強く持っていた。
しかし、ここでも不思議なHAPPYが起きた。キリノ大統領が「加賀尾に会ってもいいがどんなに懇願しても、赦す気はない!」そう断言した。昭和28年5月16日、接見が行われた。加賀尾師は、接見当日、渡辺はま子から送られてきた、アルバム式のオルゴールをキリノ大統領に渡した。オルゴールの曲は勿論「モンテンルパの夜はふけて」
ところが、この曲が、何故かキリノ大統領の心の琴線に触れ、108人の日本兵達は昭和28年6月27日、特赦となり、昭和28年夏、再び日本の地に戻ってこられた。 『わたしの心はわたしのうちで沸き返り、わたしはあわれみで胸が熱くなっている。聖書ホセア書11:8』 加賀尾師は兵士全員の帰国が決まった昭和28年7月15日まで、日本兵士達とともに、現地にとどまった。接見からこの短い時間のなかで、全員が日本に帰ることができたのだ。いくつもの不思議なHAPPYが重なって・・・。続きは、又、明日・・・。
Copyright2009 実祝(みのり)プランニング