当たり前のHAPPY その3

3月9日(月)曇りのち雨
「当たり前のように贈られているHAPPYを数えるHAPPY。」
実祝プランニング語録

冬から春にかけては、ミカンがおいしい。
親元に居たときは、ミカンを買ったことがない。
あちこちの親戚が箱単位で、ミカンを送ってきてくれたからだ。
春が近くなってくると、種類も八朔やネーブルになってくるので、今度はそれが送られてくる。
冬から春はミカンは切れることなく、毎日、ミカンがあってHAPPYという感覚でしかなかった。
しかし、親元を離れると、ミカンは買うものになってしまった。
買うのはいいのだが、重たいし、味も何か違う。おいしいミカンがあふれるほどあるというのは、当たり前ではなかったのだ、と、気付いた。
今は八朔がおいしい。私は、なぜか八朔が大好きだ。この時期は重たくても八朔をせっせと買う。

当たり前となっていた事は、環境が変われば、当たり前ではなくなる。
とりわけ自分にして頂いている『何か』は、それが気持ちが伴うことであったり、相手の厚意や優しさが伴うものであれば、『当たり前』でなく、見えない大きなHAPPYな贈り物であるはずだ。
物ならなおさらのことだ。
いつも、はげましてくれる人の気持ち、一緒になってしんどい仕事を片付けてくれる人、記念日に何かを贈ってくれる人の暖かさ、辛いことを察してくれる人の慰め、ごめんねと気遣ってくれる優しさ、
多くの『当たり前でない、当たり前のHAPPY』があるはずだ。
それを数えてみたら、HAPPYだと思う。
Copyright2009 実祝(みのり)プランニング

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