祖父と神主さんと地域の人たちの素晴らしさ
12月2日(火)晴れ 暖かい日
人を正しく見るということは、難しいことかもしれない。しかし、利欲や我を捨てたところでその本質は必ず見えてくる。それを見れる人は、素晴らしい人だ。
私の父方の祖父は明治生まれである。父は10人きょうだいの下から2番目であり、男子では末っ子だったようだ。1番上の長男の伯父とは20歳年が離れていて親子のようだったと。その上私は両親が結婚しても授かるのが遅かったので、いとこ達とはふたまわり以上の差がある。
さて、祖父は、そこそこの面積の塩田をもち、使用人も何人かいて、その地域ではそこそこの成功を収めお金もそこそこあり、人望もあったようだ。伯母の話によると、小学校の頃は皆靴下といえば、『白』しか売っていなかいたのに、祖父はセンスもよく、伯母に舶来製の『粋な黒い靴下』をはかせていたようだ。傘だって柄は木製しかないのに、『ピンクのプラスチック』のものを伯母は祖父から贈ってもらったと。しかし、この地域の人が善い人が多く、それを持っているからとねたまれたり、いじめも全く皆無だったときいた。お互いを認め合っていたのだ。
お金があって、子供達にはセンスよくさせることを喜びとしても、祖父はそれ以外、自分の欲の為には使わなかったと聞く。『これからは情操教育が必要だ。』といい、学校に良い質のピアノを贈ろうとしたが、昔の良いピアノは(多分舶来が好きな祖父のことなので、それを希望したのだろう)高価で個人ではお金が足りない。そこで、現代版のロータリークラブかライオンズクラブ仲間みたいな、仕事関係の経営者達にも熱い思いを語り皆で志をもち、互いに御金を出し合い、学校に寄贈したようだ。ピアノに限らず、よく気がつく人だったので、大きなこと小さなことを子供達だけでなく、色んな人や仕事関係にも、していたようだ。しかし、戦争が始まり塩田も閉鎖になり、心労から倒れてしまった。8年間の闘病生活があったらしい。父が若い頃,亡くなった。直ぐ上の伯母や、父はほかのきょうだいたちのように、よかった生活が短い。反対に母である私の祖母の苦労を多く見てきた。しかし、亡くなったとき、この地域はみな[神道]で神主さんが、葬儀を執り行う。通常は神道では葬儀は白装束が決まりなのだが、この神主さんは何と『紫の衣』を着てきたようだ。勉強がとても出来て好奇心旺盛な伯母がわけを聞くと、『葬儀は通常白装束が常だが、神主さんが最も敬意を表する場合に限り、その敬意の最高の証として紫の装束をつけて臨む。』と。弱って寝込んでいる姿を多く見ている伯母は『私のお父さんはそんな立派な人だった』と気がついたようだ。地域をあげての葬儀となったらしい。私はそれを聞き、
『普通は8年も闘病シテいたら忘れられても仕方がないのに、それだけの内容のある貢献をしてきたんだ。そしてそれを、神主さん始め、地域の多くが見ていて認めて喜んでいた結果だ。』そう思った。普通8年も寝込んで何も出来ないでいたら、葬儀のときは義理や肩書きの面目を保つために、表面を取り繕う事は多いと思う。祖父も立派だったかもしれないが、ここの地域の神主さんも人びとも立派な人だったからだ。無言の中に、人々の良い心を引き出し保って、成長できるように、そのために自分の神主職があるんだと、人々に背を見せてこられたんだと思う。肩書きは関係なく、人びともそれに倣う素晴らしさを持った人格者が多かったのだと思う。
伯母達がほかの子を違う高価なものを身に着けていても、ねたまれることもなく、皆良い友達として内面を見つめあっていく友情があったのかもしれない。
伯母が言うには、私が1番祖父に似た部分を持つという。しかし、祖父が100点としたら私は
10点くらいのものだ。DNAだけは残っていても、足元にも及ばない。
私は父が倒れたことがきっかけで、独立したが、いつも思う。祖父がいたらこんなときどうするだろうと。祖父と話をしたいなあと思う。
また、現代は誰かが良いことをしてもねたんで認めないことが多い。善に悪を返す人もいるくらいだ。誰かの貢献を認められる事は自分にとっても、周囲にとってもHAPPYな結果をもたらしていく。
素晴らしいお爺様と、素晴らしい地域の方々。紫の装束が目に浮かびました!
ハッピーさんは、そのお爺様に似てらっしゃるのね。色々な謎が解けました。
石畳のん様、こんにちは。いつも感謝します。
おじいちゃんは、父が若い時に亡くなったので、会う事もかないませんでした。
伯母から、教えてもらって、私も感動しました。
おじいちゃんが生きていたら、色々教えてもらえるのにと思います。(#^.^#)
いつも本当に有難うございます。