無実の人を疑う悲しさと負わせる傷の大きさ

5月14日(土)
自分の目で見、自分で体験しないと、世の中のことはわからない『社会貢献』の大切さも
自らが体験して初めて実感するのだ。福原義春(資生堂名誉会長)

人は、失敗しながら、困難を乗り越えつつ進める。昨日、クリス・ガードナーという実在の人物の半世紀の映画をテレビで放映されていた。

放映の中では描かれていないが、クリス・ガードナー自身も結婚生活の中、浮気に走ったりと失敗はあったようだ。
それが良い、悪いではなく、追い込まれたのかもしれないし、弱さだったのかも知れない。

それでも、彼は努力した。しかし、日本では、何かしら失敗があると、関係がない、事実を知らない人達が、それこそ風評被害を撒き散らす。
そこには、思いやりも愛も存在していない。

昨日、消火器をプロテスタント教会に投込んだ犯人ではない人が疑われていたことに触れた。

私は疑われた人とは面識もないし知らない。しかし、犯人で無い人を、愛を説く人達が、犯人と半ば決めつけていたことは悲しいと思う。

疑われた人にも良くない事があったのかもしれないが、その前にナゼ、その人に話を聞くなり、向き合うことが出来なかったのか?追い込まれたその苦しみを助けたのか?

犯人でもないのに、その人にも、他にも疑いをかけたであろう何人かの人たちに対して、愛を説く疑った人たちは、本気で謝罪をされたのだろうか?悔い改めとは何だろうか?

どんな立場であれ、人は神ではない。

無実の、そして神が愛して、試練の中から頑張ろうとしている人たちに風評のような噂を流して傷つけたり、その人の尊厳を踏みにじるような言動が、果たして神の喜ばれることだろうか?

悔い改めというのは、神の前に立場は関係ないはずだ。

陰で疑って、陰で言うので本人に聞こえていないと思っていても、疑われた人達の魂を傷つけた事は、神が見るのではないか?

負わせた傷が、また必要のない傷を大きく重くさせ、癒すことが難しくなっていくのだ。
ここまでの事ではなくとも、同じように傷つけられ、苦しむ人が多くなっている。
思いやりや愛を、再度考えて生きたい。
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