フランシス・マリオンのHAPPY その2

6月4日(木)晴れ
『涙と嘆きさえも周囲を活かすパワーに変えていくHAPPYがある。』実祝プランニング語録
フランシス・マリオンの「どうぞ」を受け取ったのは彼女から愛を注がれた人達と言っても過言ではない。1920年代、3度目の夫は俳優だった。夫のために、何本かの映画の監督も務めながら、脚本も書いた。多分、「相手を良いところに引き上げたい」そんな思いが情熱に火をつけ、才能をHAPPYに伸ばしていったのだろう。1927年には、22歳の新人女優だった「グレタ・ガルボ」のために、レフ・トルストロイ原作の「アンナ・カレニナ」の脚色を手がけた。グレタ・カルボは、14歳の時に父親を亡くしている。才能はあるが苦労している『気の良い人達』を心から応援したかったのではないか?
アンナ・カレニナの脚色は高い評価を受けた。そして、当時のMGM(メトロ・ゴールドウィン・メイヤー)の専属脚本家となった。MGMは1924年に3社の映画スタジオが合併して出来た、映画・テレビ番組の制作配給会社で、アメリカでも有名な巨大マスメディア企業である。このMGMの製作責任を担っていたのが、神童とまで謳われたアービン・タルバーグ。フランシスが、このアービンを説得するため書き変えた「アンナ・クリスティ」の脚本をアービンが認めたがゆえに、1930年ドレスラーは見事な復帰が果たせたのだ。 
『喜びは、自分のもてる可能性を引き出すことからもたらされる。(ウィル・シュルツ)』
ドレスラー復帰の映画はフランシスが何と最初にチャレンジすることになったトーキ映画。それまでは「サイレント映画」と呼ばれた「無声映画」。トーキとは映像と音声が一緒になったもので世界初のトーキは1927年アメリカ映画の「ジャズ・シンガー」。しかし、トーキに切り替わったとたん、人気が落ち消えていく俳優も多かった。この勝負仕事に、終わったと言われたドレスラーを起用するのは、賭けでもある。自分自身を全て注ぎだす決意と情熱で仕事にあたっていったのだ。 私はフランシスも涙と人知れぬ苦労を深く体験し、それを越え続ける努力と人間としての情を大切に包める人であったから、相手を活かすために「どうぞ」を提供し果敢にチャレンジできたのだと思う。『涙とともに種を蒔く者は、喜び叫びながら刈り取ろう。聖書 詩篇126:5』自身の涙と嘆きさえ相手をHAPPYに活かすパワーへと変えたのだ。続きは、又、明日・・・。
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